2005年9月号

 イエス様と弟子たちがエリコという町を出ていこうとした時のことです。道ばたに2人の目の不自由な人が座っていて、叫びました。「主よ、私たちを憐れんでください。」憐れみとは、同情心などの他に、切実な祈りに結びついていく気持ちというニュアンスを持っています。

 近くにいた人々は、この2人を叱って黙らせようとしました。それは、障害を持っている人は、自分か先祖が罪を犯したせいでそうなったのだから罪人だ、という当時の差別的な認識があったからで、「罪人は黙ってろ!」ということだったのでしょう。

 でも、イエス様は立ち止まり、2人に「何をして欲しいのか」と尋ねました。2人は「目を開いていただきたいのです。」と答えました。この訴えを聞いたイエス様は、深く憐れみました。体が不自由だというだけでも大変なのに、その上罪人だと差別され虐げられてきたこの人たちの心痛はいかばかりだったでしょう。だから、目が開かれれば、体のハンディキャップがなくなるだけではなく、いわれなき罪人としての差別からも解放されるのです。イエス様の憐れみは、「同じ思いになる」という意味を持っていたのです。

 イエス様が2人の目に触れると、たちまち見えるようになりました。実際に目が見えるようになったということだけでなく、心の目が開かれたのだと思います。みんなが嫌い差別している私たちに、親身になって接してくださる方がいるということこそが、この2人を救ったのでしょう。

 そして何より、この様子を見ていた周りの人たちがその目を開かれたことでしょう。先入観を取り除かれ、見るべきものを真剣に見るということに気づかされたのです。2人の訴えは、「みんなの目を開いて!」という意味だったのかもしれません。

 プールに入ると、子どもたちは「見て見て!」を連発します。バシャバシャしたり、一瞬顔を水につけたり、潜ってみたり。それをできるようになったことが嬉しいのです。だから見て欲しいのです。そういう子どもの気持ちを感じ取り、その心を見つめられる者でありたいですね。