2004年3月号

 とある幼稚園で、年中組の女の子が「私を愛してくださるイエスさまに、バレンタインのチョコレートをあげたいんだけど、どうすればいい?」と質問したのだそうです。

 私はこの質問の中に、3つの大切な要素があると思いました。一つは、イエス様が私たちを愛してくださっているのを、この子は感じているということ。2つ目は、その愛に応えようとしていること。3つ目は、そのためにイエス様はどこにいるのか探し求めていること、です。

 愛されていることを感じられるか否かは、とても重要です。どんなに愛されていても、それに気づけなければ不幸です。正確には、気づいていても、自分の中に受け入れることができなければ、と言った方がいいでしょうか。愛され過ぎて、それを素直に受け入れられなくて、逆にどんどん反抗的になっていく・・・なんて嘆きの声もたくさん聞きます。

 そうなると、「こんなに愛しているのに」という具合に、愛する側まで病んでしまいます。中には、応答を得るために愛するなどというへんちくりんな事態もまれにあります。極端な場合、愛する側が、愛される側の全てを支配してしまったりもします。

 これが親子関係で起こると、親離れできない子、子離れできない親という関係になってしまいます。一昔前、TVドラマ等で話題になったマザコン親子というようなものは、まさにこれです。

 では、どうすればいいのでしょう。
 私は、神様から、イエス様から愛を受けていると感じています。その愛は、私が生きていくために必要な全ての中に表されます。つまり、私の命、家族、衣食住、環境、その他諸々。イヤなことや試練さえも、その時の私に必要だと思えるものを、神様は私を愛するがゆえに備えてくださっておられると、信じています。この愛を分かち合うことが私たちの愛なのだと思うのです。つまり、私自身が愛されていることに気づくということ、気づけるということでしょうか。

 園児の質問に園長先生はこう答えたそうです。「園長先生に預けてください。先生が天国に行くときに、責任をもって届けます。」賞味期限は切れてるだろうけど、ともおっしゃってましたが。