2003年12月号
山の頂は雪化粧が始まりました。里にももうすぐ冬が訪れます。それは待ち遠しいクリスマスの知らせでもあります。キリスト教の暦では今年は11月30日からクリスマスの準備期間に入りますが、子どもたちはもうだいぶ前からクリスマスに備えて歌や劇の練習をしています。楽しみです。
イエス・キリストの母マリアは、身ごもったとの天使の知らせに驚きつつも、こう答えました、「私は主のはしためです。お言葉通りこの身になりますように。」これは、取るに足らないような私ですが、神様が必要となさるのならお役に立てますように、という心情を表しています。
彼女の謙遜な言葉は、それが形ばかりのものではなく己が何者であるかをしっかり自覚したところから発せられています。すなわち、神の御前では、まことに破れの多い、欠けの多い、不完全極まりない“人間”なのだということです。彼女だけではなく、“人間”がそうなのです。
しかし、これを自覚する、すなわち不完全であるということを自ら認め、受け入れるということは、決してやさしいことではありません。己の立場を気にしたり、プライドが高かったり、自己絶対化をするような思いはこれを妨げます。
でも、人間には破れも欠けもあるのです。私もご多分にもれず、気がつくと「完璧」でなければならないと思いこんでいることがあります。もちろん、疲れていきますし、判断を誤ることもありますし、傷つけたり傷ついたりすることもあります。
そんな時、神様は気づかせてくださいます、「あなたは破れも欠けも多い人間です。」それだけではありません、「だから、私に従いなさい。」
私たちはどこまでも不完全なのです。しかし、神様は足りないところを補い合う“愛”という知恵と力を私たちに備えてくださいました。それをお示しくださったのが、キリスト降誕の出来事です。
母マリアは破れや欠けを自覚するだけでなく、それを補ってくださる神への信頼を表明しました。そのことの中に、幸いがありました。己の傲慢を自戒しつつ、子どもたちにこの幸いを伝えていくクリスマスを過ごしたいと思っています。