2002年11月号

 聖書の中に「ザアカイ」という物語があります。ザアカイは人々から嫌われていました。なぜなら、彼は人々から税金を取り立てる徴税人の親分で、徴税人たちは税金を取り立てる時余分に取り立てて私腹を肥やしており、その親分ともなれば相当の不正をしていたと思われていたからです。

 ある日、彼の町にイエス様と弟子たちがやって来ました。噂を聞きつけて大勢の人が広場に集まりました。その中にザアカイもいました。イエス様はザアカイを見つけるとこうおっしゃったのです、「ザアカイ、今日はあなたの家に泊まるよ。」それを聞いた周りの人々は驚きました。救い主であるはずのイエス様が、不正を働く罪人の親分であるザアカイの家に泊まるなんて!

 喜んだのはザアカイです。人々に忌み嫌われ、寂しい毎日を送っていたザアカイのところに、イエス様と弟子たちが来てくださるのです。ザアカイはイエス様に約束して言いました、「私は財産の半分を貧しい人々に施します。また、もし不正を働いていたなら、それを4倍にして返します。」これを聞いたイエス様は「今日この家に救いが訪れた」とおっしゃったのでした。

 この物語は、「罪人が悔い改めたお話」として受け止められています。でも、聖書を読む限り「ザアカイが不正をした」とはどこにも書いてません。それどころか、ザアカイがイエス様とした約束は「もし私が不正をしたなら」とあり、自分は不正をしていないと宣言しているも同然なのです。つまり徴税人はそういう者だという偏見がザアカイを苦しめ、またこの物語を勝手に悔い改めの物語にしてしまっていたのです。

 ザアカイは、イエス様に認められたこと、イエス様は真実をご存知でいたくださったことを知り、喜びました。周囲の偏見に苦しめられても、イエス様に受け入れてもらえたことによって解放されたのです。

 認めてもらえること、受け入れてもらえること、これがいかに大切かを教えられます。そこに、私たちが生き生きと生きる力が備えられているのです。