181)白髪について

髪の毛は皮膚の一部です。毛髪の色はメラニンという色素が多いか少ないかによって決まり光の屈曲や反射の度合いも関係します。日本人などの黄色人種や黒人は殆どが黒色ないし黒褐色ですが白人の毛は黒色、黒褐色、栗毛、金髪、赤色などいろいろあります。黒髪を脱色すると金髪になるのはよく知られています。さてメラニンを作る細胞をメラノサイトといいますがそれが減ると白い髪になります。原因は@老人性白髪(加齢に伴いメラノサイトが減少)A家族性早期白髪又は若白髪(常染色体優生遺伝を示します。若くしてメラノサイトがなくなります)B自己免疫疾患による白髪(まちがって自分の体を攻撃する病気を自己免疫疾患といいますが自分の体がメラノサイトを攻撃して破壊してしまいます)Cその他にもいくつかの原因がありますが残念ながら髪の毛を自然に黒くする薬はありません。天皇家は天皇陛下も皇后陛下も秋篠宮様も自然のままのシルバーグレーでとても優雅で上品です。あやかりたいものです。(100915)

182)赤き唇
透き通るような白い肌に真っ赤な唇。いかにもそそられるイメージですが医学的には上唇(じょうしん)とは鼻の両脇から下方へ伸びる鼻唇溝という溝から内側の鼻の下の広い部分を指します。下唇(かしん)はオトガイ唇溝までとなります。つまり歯の前にかぶさっている部分を上唇下唇と定義しています。そして口腔粘膜の上皮が顔の外に出たものが赤き唇で赤い色は粘膜下の血管の色が透けて見えるからです。粘膜なのでいつもぬれていないとすぐひび割れてしまいます。健康な人の唇は真っ赤ですが体調が悪いとくすんでしまいます。唇の色は一目でわかる健康のバロメーターです。真っ赤な口紅は女性を健康にみせる最良の装飾品といえます。口唇には知覚神経が密集していてきわめて鋭敏であり唇の接触は非常に重要な意味を持ちます。唇の接触はキス(接吻)と呼ばれるがこれは信頼と愛情、性愛の行為でヒト特有。「猿の惑星」では猿の博士夫妻がキスをする場面があるがこのシーンで猿がヒトになったことを示唆しています。が残念ながら猿に赤き唇はありません。(101010)

183)天高く鮨恋ゆる秋
この週末は今秋珍しい快晴に恵まれ空気が澄み切った天はあくまでも高く、素晴らしい行楽日和でした。秋深き当間ベルナティオでは金色の小さき鳥の形をしたイチョウの葉も夕日に照らされて見事に色づきホテルは行楽客で賑わっていました。某会社で健康講話をした帰りなじみの寿司屋に寄った。11月は新米が出回り、魚に脂がのって一年で一番おいしい「鮨」「鮓」「寿司」が食べられるとのことで熱燗で早速見繕ってもらった。この瞬間は日本人に生まれた幸福を感じる。魚のEPAは血液さらさら効果で有名である。薬にも100%イワシのEPAを使ったものがあり健康に良いのはもちろんおいしくて低カロリー食として今や世界中の超人気メニューである。加齢に比して太るのは基礎代謝(人が生きるのに必要なカロリー)は年々減るのに摂取カロリーは昔と同じからである。外人には高カロリーの洋食しかないが日本人にはさっぱり系の和食がありこれが日本人の健康を保つ実にすばらしい食品なのである。若い時は必要なカロリーは洋食でそして熟年になったら自然に和食に帰る。これが世界一の長寿国日本の礎です。鮨を含めておいしい魚沼コシヒカリを頂きまーす。(101115)EPA:エイコサペンタエン酸

184)よく遊びよく遊べ
明人サークルのさわやか教室で講演。元気なお年寄りが集まっておしゃべり、手芸、踊りや軽体操、カラオケ、折り紙、花札、かるた等に興じていてとても楽しそうで安心しました。10月の市報は自殺者が全国的に常に上位の新潟県の中にあって十日町市はダントツのトップと報じています。80代の女性が多いのは男性より平均8年は長生きする女性が配偶者を失うという人生最大のストレスに耐えられずうつ病になってしまうからです。人に会うのも億劫になり閉じこもりますがそんな時こそさわやか教室を利用して下さい。大声でカラオケを歌ったり愚痴をこぼしたり同情したり少し優越感を持ったり手先を使ったりして楽しい時間を過ごしましょう。とにかくよく遊びよく遊びそして毎日サラダ記念日や何とか記念日を企画してわいわいがやがやしゃべりまくりましょう。さわやか教室を大いに利用して十日町の寒くて暗い冬を乗り切ってそしてあのめくるめく春を待ち焦がれましょう。(101215)
185)命もいらず名もいらず
すごい男がいたものである。幕末から明治にかけて徳川幕府の下級旗本に生まれたラストサムライ山岡鉄舟。とにかく一途。剣を取れば浅利又七郎から一刀流を継承。書に禅に道を究め激動の時代を少しもぶれず己の信じる道をただ一直線に駆け抜けた。江戸総攻撃中止と徳川将軍家存続のために官軍まっただの中を江戸から駿府に出向いて西郷隆盛と直談判。江戸城無血開城後は徳川家や旧幕臣10万人を静岡に移住させて不毛の牧ノ原に茶の栽培を開拓。維新後は若干21才の明治天皇の侍従に抜擢され九重の奥でひ弱に育った天皇に真の王道を指南。是は是、非は非の一本道は天皇相手でも微動だにせず。「生きるとはただひたすら、目の前のことを全身全霊の力をふりしぼって成し遂げることだ」と言い切る。生涯の座右の書を得た。(110115)