十日町ライオンズクラブ                      アイバンク活動の歴史

アイバンク設立のいきさつ

 近代社会にはエイズ(AIDS)を初めとして数多くの難病があります。その中でも病気や事故などで、眼球の角膜を侵され失明された方々は、他の病気と違い、最先端のME機器や、人工臓器の恩恵に浴することも出来ず、文字通り光から閉ざされた不幸な一生を送らねばなりません。
 失明を救済する唯―の治療法は昔も今も人体の而も死体からの角膜移植を措いて外にありません。
 今から凡そ30年前(1930年)、アメリカに於いて、いち早く失明者救済のため、アイバンクが設立された理由も滋にあったと申せましょう。
 これに反し、わが国では由来、法的には死体損壊罪があり、しかのみならず、死体から眼球をとるなどは宗教上からも許さるべくもないタブーでした。
 しかし、時代の趨勢から、眼球という造物主による例うべくもない精緻にして尊い恵眼が、いったん命尽きると火葬に付され、一匙の灰と化し、失明者の光源として開眼へのチャンスも空しく、葬り去られるとは大変勿体ないことと思う風潮が芽生え始めました。
 かくしてアメリカに遅れること28年、昭和33年、漸く 「角膜移植に関する法律」が公布、死体からの摘眼・角膜移植が合法化をみたのです。更に5年後、昭和38年、眼球銀行即ちアイバンクが認可設立、爾来、各地にアイバンクが設立され、現在全国で29ヶ所のバンクが日夜をわかたず「光と愛の奉仕活動」を続けて居ります。
 以上の現状を踏まえ、昭和54年、 「角膜及び腎臓の移植に関する法律」が再度改正され、アイバンクは腎バンクと共に現在最も強力に推進され、登録者数も年々増加の一路を辿っている事は喜びに堪えません。

アイバンク讃歌

       L登坂行雄作  
一、恵眼ほひかり、光こそいのち
  一本の灯りが二本に点るとき
  闇の帳りほ開眼かれ
  わたしはあなたの瞳に蘇きる
  EYEこそ光
      光明こそ不滅

二、恵眼ほひかり、光こそ希望
  百本の灯りが千本に点るとさ
  友愛の恵眼、同胞一視
  あなたとわたしほ眼兄弟
  EYEこそフレンド                フレンドこそ至福

三、恵眼ほひかり、光こそ平和
  万灯の光明が世界を照らすとき
  世界人類ほ千才を収め
  光と愛が地球を照破す
  献眼こそ奉仕
      献眼こそライオンの命

 昭和55年11月26日、333−A地区5Rのアイバンク特別委員会が長岡市で開催、各クラブの代表が出席した。それまでアイバンク運動など他人事に思っていたわがクラプの中にこの話題が盛り上がった。
昭和58年6月に当クラブから発行されてCABにも提出された「十日町LCの献眼奉仕活動」という小冊子には、当時の樋口貫一12代会長は、天理教の信仰者で、人を助けることに深い思いを抱いており、例会のたびに会長挨拶の中でアイバンク運動を提唱し続けたとある。そして翌昭和56年4月の第2例会に、小出LCアイバンク委員長L鈴木啓三をゲストに、「アイバンクについて」の卓話を拝聴、その時以来、当クラブのアイバンクの動きが始まった。
 昭和56年7月、星名甲子郎13代会長は「アイバンク特別委員会」を設。ACT重点事業として新年度初例会後から活動が始まり、連日のように資料収集、PR庸の栗作成、市行政と連携してのPRのため、諸里十日町市長と会見、市長のメッセージを市内全戸に配布することも決定。市当局の全面的な協力を得て、合同記者会見にも市長が出席して趣旨説明を行なった。
 10月8日のライオンズデーには、例年公園などの清掃を実施して来たが、この年は全メンバーが大キャンペーンをはり、市長メッセージ、会長挨拶、アイバンクの栗を全メンバーが参加、2398世帯に配布した。
 昭和57年5月15日の例会には、郡市曹洞宗の青年僧侶の会の会員20名が、宗教的な偏見を打ち破るため全員が登録。同年7月11日、青憎会10周年記念行事にもアイバンクのPRをして頂いた。
 昭和57年10月9日、ライオンズデーには、十日町市民体育館で全盲のエレクトーン走者、大島彰氏による「光と愛のコンサート」を行ない、この
年の重点ACTの「青少年の情操教育」「身障者へのボランテイア」「老人間題」「アイバンク啓蒙」をこの演秦会にもり込み、@白い愛の杖贈呈、A視覚障害者・精薄施設園児の招待、B中学生の観覧と作文コンクール、C献眼PRと登録受付とバザーを行なった。
 昭和58年2月13日、十日町雪まつりの当日、大島彰作曲、諸里十日町市長作詞の新曲「慕情十日町」の発表会が雪上舞台で行なわれ、同じ時に伊勢崎中央LC、L桜井の協力で実施した米粒人形実演会でも腹話術で献眼PRを行なった。昭和55年にこの運動が提唱されてから1年間で178名に
なり、「光と愛のコンサート」終了時には221名に達し、クラブメンバーも積極的に登録した。その後、昭和59年2月11日 (雪まつり)140名、 6月15日21名、8月5日(商業祭)53名、昭和60年2月9日(雪まつり)87名、8月3日(商業祭)83名、昭和61年2月9日 (雪まつり)45名、 8月2日(商業祭)37名、昭和62年2月14日(雪まつり)100名、昭和63年2月13日(この年より雪まつり
にのみ実施)191名、平成元年2月13日127名、 2年2月18日108名、 3年月17日83名、 4年2月15日124名、平成5年5月8日(本年よりきものまつりに実施)77名、6年5月3日、83名、7年5月3日、94名、 8年5月3日、101名、 9年5
月3日、100名、10年5月3日、72名、11年5月3日8、6名で、合計2082名と大台に達している。
 更にこの間に尊い角膜提供をなされた方は、故近藤勇様(S58.5.28)、故松沢清治様(S59.9.36)、故大島栄三様(S61.8.19)、故八嶋善市様(S63.7.9)、故羽,鳥キク様(Hl.9.21)、故池田三郎様(H5.12.23)、故樋田ミツイ様(HO.3.29)、故村山清様(H10.10.16)である。なお、この中で樋口ミツイ様は、12代会長樋口貫一氏の夫人、村山清様は現役メンバーとしての登録第1号であつた。樋口貫一氏談「身体でする奉仕こそライオニズムの原点。これからも献眼登録の活動がますます定着して行くように祈っています。」今年も5月3日のきものまつりに献眼登録のPRを実施、折しも成人式とあって着物姿の若い男女が成人の記念に登録する光景が清々しかった。
                                     (L田村順一)